3月11日に起きたこと
概要
本校は、平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災津波により、壊滅的な被害を受けました。
本校は、平成20(2008)年4月に岩手県立広田水産高等学校(当時)と統合し現在に至ります。そのため、被災当時、陸前高田市高田町の校舎(長砂校舎〔以下「旧本校舎」と記します。)と同市広田町の広田校舎(水産系学科である海洋システム科の缶詰製造等を行う実習棟等がありました)と2つの校舎がありました。旧本校舎は3階まで浸水しました。広田校舎では、実習棟の1階が浸水し、実習艇「かもめ」などが流失しました。
岩手県内の県立学校で、校舎全壊の被害を受けたのは本校だけでした。
被災前
あの日のこと
あの日、東日本大震災津波の発災日の本校は、既に10日前に卒業式が終わり、また、高校入試も終った時期にありました。当日は午前授業で、午後は、ほとんどの生徒が部活動に参加していました。国公立大学後期試験に向けた指導を受けていた卒業生も校舎内にいました。
推定震度6の地震が発生した午後2時46分、部活動では、サッカー部とソフトテニス部、水泳部が校地外で練習中でした。温水プールがあったB&G海洋センターで練習していた水泳部は、活動が終わってちょうど着替えをしていたところでした。
地震発生により、校舎内にいた生徒や教職員は全員、旧本校舎前の第1グラウンドに避難しました。旧本校舎脇にあった体育館は市の避難所に指定されており、地域住民の方々も避難してきました。
サッカー部とソフトテニス部の生徒は、避難のため本校に戻ってきました。水泳部の生徒はB&G海洋センターの職員とともに、マイクロバスで市の避難所に指定されていた市民会館に避難しました。
その後、津波警報発令に伴い、校地内の生徒、教職員、地域住民の方々は、旧本校舎裏山にある標高約40mの第2グラウンドに避難しました。普段、ここでは、硬式野球部と陸上競技部が活動していました。第2グラウンドへの避難は、高低差約40mの急坂を急いで登ることを意味しています。地域住民の方の中には「チリ地震津波では、ここ(旧本校舎)まで波は来なかった」と第2グラウンドへの避難を渋られた方もいたそうです。
実際、昭和35(1960)年5月24日発災のチリ地震津波では、高田松原の地点で4mの高さの津波が襲来し、本校第1グラウンドが浸水しましたが、当時の校舎は無事でした。
避難を渋られた方がいましたが、最終的に第2グラウンドまで避難することができました。避難に際しては、生徒が地域住民の方々を誘導しました。本校の体育館に避難するだけで精一杯のお年寄りの両脇を抱えて第2グラウンドまで付き添い避難した生徒もいました。
大きな犠牲
東日本大震災津波で陸前高田市高田町を襲ったのは、最大浸水深17.6mの津波でした。陸前高田市東日本大震災検証報告書(陸前高田市/平成26年7月)によると、陸前高田市における死者・行方不明者数(直接死)は1,771
人でした。この死者・行方不明者数(直接死)は、岩手、宮城、福島3県内で海岸線を持つ37市町村の中で、石巻市の3,712人に次いで2番目にの多さでした。陸前高田市の被害を犠牲者率でみると10.64%になり、3 県沿岸 37 市町村の中で最も高い比率になっています。このように、今回の大震災津波により、本校が所在している陸前高田市は甚大な被害を被ったのです。
東日本大震災津波によって、本校では、現在も行方不明の方を含めて、生徒22人、教職員1人の尊い命が犠牲となりました。
復興・防災・減災を誓って
これまで私たちは、皆様からいただいた多くのご支援を支えに、自らも不倒不屈の精神を持ちながら、一歩一歩復興への道のりを歩んできました。
そして、今日も、この大震災の辛い経験を忘れず後世に語り継ぐとともに、災害被害防止のために深く学び続けています。